押井守版「攻殻機動隊」は生命の定義を問い質す深読みアニメ!

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サイボーグであり、ヒトでもある主人公・草薙素子。

彼女は果たして「生命」なのだろうか?

今回は、ジェームズキャメロン他、世界の映画監督に多大な影響を与えた傑作アニメ「攻殻機動隊」を通じ、「生命の定義」について考察します!

難易度高めのSFアニメ

(c)1995 士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENT

本作を監督したのは、アニメ界の巨匠・押井守。

押井守作品の特徴は、哲学性

おちゃらけコメディである「うる星やつら」でさえ、哲学映画に昇華させてしまうほど、その作家性は強固です。

「攻殻機動隊」でもその作家性が全面展開されています。

ゆえに初見時は「なんか映像やアクションはスゴかったけど、結局どんな話だったんやろ」ってなる方が多数と思いマス。

私自身、最初に観た時は、ろくに世界観が説明されないまま話が進むため、飛び交う意味不明な専門用語や、謎めいたキャラの続々登場っぷりに「?」の連続だったンですが、最後まで観て「そういうことか…!」と疑問が氷解しました。

要するに本作で描かれるのは「生命の定義」です。

生命の定義とは

(c)1995 士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENT

攻殻機動隊に登場するサイボーグたちは、ゴーストと呼ばれる「人によって作られた記憶」を持っています。

ゴーストがあることで、人間として最低限の生活ができるようになっているのです。

しかし、主人公の草薙素子の記憶はゴーストではありません。

なぜなら、幼少期に、脳と脊髄以外を義体化させた過去があるからです。

人工的に埋め込まれた記憶(ゴースト)で生活するサイボーグばかりのなかで、草薙の記憶だけが「ホンモノ」なのです。

しかし、「ホンモノの記憶」とはいったい何なのでしょう?

草薙は幼少期は人間だったわけですが、今はサイボーグの身体です。

では、彼女はやはり人間ではないのでは?

今がサイボーグなら、記憶がホンモノだろうがニセモノだろうが「サイボーグ」なのではないか。

つまり「生命ではない」のではないか。

本作はこうした「生命の定義」を観客に問い続けます。

死んだ顔のキャラたち

本作に出てくる登場人物は表情がありません。

笑うことはなく、その固まった顔はまるで機械。

人間らしさを感じない彼らが、「自分は人間」「あいつは機械」と論議する様子は滑稽ささえ感じます。

さらにいえば、自分の記憶が「人により作られたもの」と知って涙を流すサイボーグのほうが、人間より人間らしいのでは?とさえ感じます。

生身という点では、人間は生命。

しかし、それがない無機物であるはずのサイボーグのほうが、生命の躍動を感じる。

この矛盾やもどかしさが、終始劇中に漂うンです。

生命の定義という問題提起から見えてくるもの

(c)1995 士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENT

本作は以上のように、我々が考える「生命の定義」を終始揺さぶり、問いただしてくるわけですが、この問題提起は「生命」に限らない、普遍的な問題提起なのです。

例えば、我々人間のもつ「差別意識」。

見た目や考え方の違いで「普通」という枠組みから排除しようとしますが、果たして「普通」とは何なのでしょうか?

一般的、の定義は何なのでしょうか?

こう考えてみると、普通や一般の線引きが非常に曖昧であり、その定義は各人の「過去の経験」であったり、その時に持っている知識によって左右されることがわかります。

「人間」と「サイボーグ」の両面を持つ草薙は、「差別する側」と「差別される側」の双方の要素を持ち合わせた存在。

ゆえに彼女は「差別する側」の枠組みのなかで葛藤します。

本作を視聴後、みなさんのなかにはきっと、こうした「今の世界の不条理さ」という問題意識を持つことになるはず。

以上、映画「攻殻機動隊」を生命の定義という観点からレビューいたしました!

未鑑賞の方はぜひ、ご鑑賞ください!

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